公が、教育にお金をあまり掛けないということは、どんなことを引き起こすのでしょうか。

1)教育の劣化
教育に人手(教員の数、教育を支えるスタッフの数)をかけていないため、子どもたちの興味関心を引き出し、個にあった、きめ細やかな教育ができないため、公的な教育の場である学校では、一斉授業、画一型の教育になりやすい。

2)教育格差拡大
公的な学校の場で不満で、より高い教育効果を得ようとすれば、「私費負担」(保護者が支払う)を支払い、塾や家庭教師、お習い事等など追加で教育プログラムをうける必要が出る。しかし、その場合は、親の「経済力」が色濃く反映するため、教育格差が開くこととなる。

3)教育の大きな格差は、努力しない他力本願な市民の増加へ
行き過ぎた環境格差は、子どもたちに「どうせやっても無理」と、チャレンジ精神の低下を招き、他の人の成果にすがって生きる「他力本願」な市民となってしまう。

私がこれまでにキャリア教育をコーディネートしてきた、ある小学校の教員からこんなことを聞きました。

「学区にある貧困家庭が多く住んでいる地域から来る児童のなかに『どうせ将来、ニートなるから』と言う児童がいる。」
最初から受けられる教育環境が違いすぎると、がんばろうと思う気もなくなるのです。

この話をすると、「ハングリー精神
を養うには格差は必要」という方もいらっしゃいますが、これは程度の問題。
がんばれば乗り越えられそうと思う格差であれば、努力もできますが、圧倒的な差の前には、むしろ努力は生まれないのです。

4)自己中心的な市民の増加
「お金を払えばいい教育を受けられる、というもので何が悪いんだ」と教育を、個人や家庭の責任に帰結する考えは、「社会をよくするために、学び成長し、社会に貢献する」という公の精神へとつながらない。
「自分で稼いで自分で教育に投資したんだから、それで成長していい仕事につき、稼いだお金も自分のために使うのが当たり前」という考えになるのは当然です。


周りから「世話になった」「育てられた」という意識があるからこそ、周りに対して役に立とうとする。恩返しをしたいと思う。

ウインドウズを脅かす存在となった無料OS「リナックス」を開発した、フィンランドのリーナストーバル氏は、なぜOSを無料にしたのか?を問われて、こう答えたという。

「私は、ヘルシンキ大学に在学中にリナックスを開発した。私は大学まで無償で学ぶことができたわけだから、その成果は広く公共に供するべきものであると考える。OSとは、誰もがひろく使うための『公共性』があるもので、特定の企業や個人が、その利益を独占することはあってはならないと考える」と。
こういった考えは、フィンランドが大学まで一切が無料となっている教育システムだからこそ育まれる。

今、日本の教育システムのなかで育った若者達が、どれだけ地域から支えられて育ってきた、という意識をもって学校を卒業していっているのでしょうか?

この点を変えていくことに、「ワカモノスイッチ」のポイントがあります。